8-6. キリシタン弾圧と「島原の子守歌」
秀吉や家康がキリシタン弾圧に踏み切った理由は、カトリック教やその信者が日本古来の神道や仏教を異教として迫害と破壊をくりかえし、エスカレートさせていったこと、宗教だけではなく国家権力の集中を妨げるような情勢と魂胆が明らかになってきたこと、金や銀が国外に持ち出されるようになってきたこと、加えて九州、特に長崎県の島原や熊本県の天草地方で外国人による人身売買が横行し、女性が娼婦として売られていく状況下になっていたからである。
「幻の邪馬台国」の著者で知られる宮崎 康平さんが作詞作曲された「島原の子守歌」の歌詞には、買われて、売られて石炭船の底に閉じ込められ、異国へ売られていった女性のことが書いてあり(下記、歌詞の傍線部分)、子守歌というより売られていった娘へのレクイエム(鎮魂曲)になっている。天草は球磨地方に比べて人口は多いのに耕地が少なく、球磨地方への開拓移住政策が明治時代にあった。こんな非人道的な悲しいことが続いた背景には、天草地方の貧困があったのだろう。以下、島原の子守歌(作詞・作曲:宮崎 康平)の歌詞と若干の補足説明をした。
1) おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の 梨の木 育ちよ
何の梨やら 何の梨やら 色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ 鬼(おん)の池ン
久助(きゅうすけ)どんの 連れんこらるバイ
鬼池は天草の地名で、天草下島の北端にある。この鬼池には、久助どんと呼ばれる人買い仲介の長者がいたのである。対岸は島原半島の南島原市口之津港である。天草市役所前の国道324号線を北上すると北端の突き当りが五和町鬼池(いつわまちおにいけ)である。口之津は三井三池の石炭を積み出す外港であった。今でも、口之津開田公園のそばに「南蛮船来航の地」と刻まれた記念碑が建っている。三井三池炭鉱の石炭が、近くの三池港から運び出されず、わざわざ長崎県の口之津港から外国へ運ばれたのかというと、三池港は明治の末(明治41年)の開港だからである。近くには、長洲港(玉名郡長洲町)もあるが、この港の開港はもっと遅く昭和28年であり、当時、大型船が着岸できる港は南島原の口之津港しかなかった。
2) 帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家 じゃけんど
唐芋飯(といもめし)や 粟(あわ)ン飯
唐芋飯や 粟ン飯 黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
嫁御(よめご)ン 紅(べ)ンナ 誰(だ)がくれた 唇(つば)つけたら 暖ったかろ
お嫁さんの紅はだれが持ってきてくれたんだろう、人買いの久助どんが手懐(てなず)けるためにくれたんだろか、、「唐芋:といも」はサツマイモ(カライ)のことで、「唐芋飯唐芋」はサツマイモを炊き込んだご飯。「粟ん飯」は粟を炊き込んだご飯。現代の混ぜご飯と違い、米の足りない分を芋や粟で補うのが目的。「唇つば」は天草や島原あたりの方言で、唇のこと。
3) 山ん家(ね)はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい サンパン船は与論人
姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で 船ん底ばよ しょうかいな
泣く子はガネかむ おろろんばい アメガタ買うて ひっぱらしゅう
人の注意を火事の方にそらすため、人買いが火をつけて山の家は火事。その間に娘たちはサンバン船で沖に連れていかれた。サンパン船というのは、中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船のことである。中国との交流が盛んであった長崎では小型の通船をサンパンと呼んでいた。船の乗組員は出稼ぎの与論人(ゆんぬんちゅ)だったのだろう。与論島は奄美群島の一つ、鹿児島最南端の島。
4) 姉しゃんな 何処(どけ)行たろかい 姉しゃんな 何処行たろかい 青煙突のバッタンフル
唐(から)は 何処ん在所(ねき) 唐は 何処ん在所 海の涯(はて)ばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろん おろろん おろろんばい
口之津港には、香港のバターフィルという船会社の船が出入りしていたので、のちに地元の人々は外国の貨物船をすべて『バッタンフル』と呼ぶようになった。唐(から)ゆきさんたちは、バッタンフルの船底に石炭と一緒に押し込められ、口之津港を後にした。唐ゆきさんは、江戸時代から19世紀後半にかけて、主に東アジアや 東南アジアに売られ、娼婦として働かされた日本人女性のことである。「唐」は広く外国を意味し、の中国王朝の唐時代(618年~907年)までの唐ではない。
5) あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪(ゆびがね)はめとらす
金はどこん金 金はどこん金 唐金(からきん)げなばい しょうかいな
おろろん おろろん おろろんばい おろろん おろろん おろろんばい
あの人たちは2つも金の指輪をはめてる、金の指輪はどこの金だろうか、唐から持って帰ってきたんだろうか、、。